山下潔子はー信濃歌人傳評

山下潔子は、大正十三年二月八日、南安曇郡堀金村で父竹岡潔、母むつみの長女として生まれる。

昭和十六年三月、県公認・松本和洋裁縫女学校卒業。翌四月から二年程、南安曇地方事務所に、ついで、十八年から二十年まで食糧営団南安曇支所に勤務。支所に勤務の時、職場の上司、降旗吉衛(後「露草」主宰)に歌集『安曇』を寄贈されたのが、歌との出逢いであった。時に昭和十八年、十九歳であった。又この年、里山辺での宮原茂一、あつ子夫妻(後「白夜」主宰)の「みくまりの会」に参加。この会は、宮原夫妻が長野に移られた翌十九年に閉じた。二十一年、「信濃短歌」(丸山忠治主宰)に入会。翌二十二年十月に山下博将と結婚、結婚と同時に作歌をやめる。この頃の歌は

ふたたびは思うことなき面影と谷のさくらに心寄せつつ (昭和二十一年)

混沌の淋しさにおりと手紙かく夜をこおろぎの部屋すみに鳴く(昭和二十二年)

というもので、いずれも「信濃短歌」に発表したものである。

昭和二十七年、父潔死亡。三十一年、夫経営の真空管のハルブ工場が倒産、生家の堀金村に移り住む。翌三十二年に降旗吉衛に再会し「露草」に入会。昭和三十四年四月、日本ヴーグ社から「手編み機によるレース編』を出版した時、父潔の名前を受けつぎ筆名にした。

憑かれたる如くレースのデザインを思うときふと過去よぎりたり

そのむかし短歌によせし情熱のよみがえり来てデザイン思う

わがデザインノーブルレースと銘打たれ店に並ぶ日終に来たれり

夢かない交渉成りて帰途につく夜汽車に一人思い飛躍す

結婚と同時にぷっつりやめてしまった短歌が十年振に復活したのである。歌は下手であるがそれからの私には、レース編のデザインとともになくてはならぬよりどころとなぐさめを与えてくれるものとなっている。右の歌と文章は、昭和六十一年十二月に近代文芸社から出版した『歌集・山の花の歌・仕事の旅の歌』で著者の山下潔子が綴ったものである。

この歌集は山下潔子の第一歌集である。題名の如く二部構成となっており、左めくりの方は見開きで、右頁に高山植物の花の写真を扱かい、左頁にはその花を詠んだ横書きの短歌八首を収載する。右めくりの方は、作者が独自に開拓した分野の仕事からの旅の歌が、これは縦書きで一頁に十数首載せる。歌数は全部で一一二五首を収録してある。この歌集は、いくつかの点からみてユニークな歌集といえよう。その一つは、作者と自然の関わりが窺えること。二つに、作者の日記風メモによる連作がなされていること。三つに、作歌を再開した昭和三十四年から昭和四十五年までが時間の経過に従って配列されているために、作者の作風の変遷を知るのに利便であること。

作者が独自に開拓した仕事、即ち、編物研究は、昭和三十一年に山下編物研究所として開設され、昭和四十六年、県公認諏訪編物技芸学院と改称され、現在に至っている。

他方、歌歴の方は、昭和三十三年から四十六年まで降旗吉衛の「露草」に、昭和四十三年から昭和四十六年まで宮原あつ子の「白夜」に、昭和四十五年から五十一年まで大田青丘の「潮音」に、昭和六十二年から現在までは丸山敏文の「露草」、又、昭和六十三年から現在まで、松本門次郎の「底流」に所属している。これらで見るように、複数の結社に所属しているのは、作者の歌域の拡がりと探究心の表われで、一流の俳人、歌人にしばしば見られる傾向でもある。

右に見たように、山下潔子の本業は編物である。従って、その点を抜きにして論ずることは出来ない。先の第一歌集で作者は、「私の編物歴」の冒頭で「私が手編物のレースをはじめたのは昭和三十二年り春からであった」と述べ、昭和三十四年には先の編物の本の出版にこぎつけた。この時の様子を

まなじりを上げし決断わが三十四歳正月六日忘れず

とうたう。更に

目つむれば浮かびひらめく創作の神がわが身に乗りくれしがに

浮かびくるもの次々に指示・指導わが生徒らと製作つづく

厳冬の信州安曇の生家にて糊づけ仕上げのつらさは云わず

百近き作品原稿書き上げて如月寒き安曇野を発つ

以後この本がきっかけとなって、全国各地に私の仕事の旅が始ったのである。

と歌と文章は続く。こうした編物の技術説習の旅をメモと歌で第一歌集は綴ってゆく。

昭和五十年、最愛の理解者の夫、博将と死別。

あえぎあえぎ目指す三千登り来て乗鞍の霧に亡父と巻かるる

あとにつきひた登り来しよ乗鞍のいただきに亡夫とケルン積み上ぐ

右の二言は昭和五十七年の作であるが、第一歌集に散見する亡夫との山野行を偲ぶ歌は佳吟・愛惜、心打たれるものがある。

次に第二歌集にふれておく。『続・山の花の歌』(平成二年七月。近代文芸社)は〝短歌で綴る山の花図鑑〟の小見出しをつける。右頁が山の植物のカラー写真、左頁が短歌で合計三八一首を収載する。

最後に、作者への評価にふれておく。

昭和四十五年、短歌研究の中部地方推薦新人作品に六首。翌四十七年に中部地方新人作家特集に五首。この年は又、第十五回新入賞佳作に十首掲載された。この昭和四十七年から歌壇名簿、年刊歌集に登載されて現在に至っている。その十首の中から

夜間授業終えてストーブに沸きし湯を夜々注ぎいるわが湯たんぽに

家事はわが二の次三の次にしてあたふたと済ませ教室に入る

厳しい生活が直叙されていて詠む者の心を打つ作品である。         (星野 五彦)

※「信濃歌人傳 二」信濃文学界編 平成三年十二月十八日 謙光社 より