くら日記
「原村の鏝絵(こてえ)ガイドブック完成!」(記事は長野日報)
2018年5月16日 水曜日諏訪巡礼DVD 完成! 住職が寺院の由来や寺宝などを解説しています。
2017年4月1日 土曜日山下潔子はー信濃歌人傳評
2015年2月4日 水曜日山下潔子は、大正十三年二月八日、南安曇郡堀金村で父竹岡潔、母むつみの長女として生まれる。
昭和十六年三月、県公認・松本和洋裁縫女学校卒業。翌四月から二年程、南安曇地方事務所に、ついで、十八年から二十年まで食糧営団南安曇支所に勤務。支所に勤務の時、職場の上司、降旗吉衛(後「露草」主宰)に歌集『安曇』を寄贈されたのが、歌との出逢いであった。時に昭和十八年、十九歳であった。又この年、里山辺での宮原茂一、あつ子夫妻(後「白夜」主宰)の「みくまりの会」に参加。この会は、宮原夫妻が長野に移られた翌十九年に閉じた。二十一年、「信濃短歌」(丸山忠治主宰)に入会。翌二十二年十月に山下博将と結婚、結婚と同時に作歌をやめる。この頃の歌は
ふたたびは思うことなき面影と谷のさくらに心寄せつつ (昭和二十一年)
混沌の淋しさにおりと手紙かく夜をこおろぎの部屋すみに鳴く(昭和二十二年)
というもので、いずれも「信濃短歌」に発表したものである。
昭和二十七年、父潔死亡。三十一年、夫経営の真空管のハルブ工場が倒産、生家の堀金村に移り住む。翌三十二年に降旗吉衛に再会し「露草」に入会。昭和三十四年四月、日本ヴーグ社から「手編み機によるレース編』を出版した時、父潔の名前を受けつぎ筆名にした。
憑かれたる如くレースのデザインを思うときふと過去よぎりたり
そのむかし短歌によせし情熱のよみがえり来てデザイン思う
わがデザインノーブルレースと銘打たれ店に並ぶ日終に来たれり
夢かない交渉成りて帰途につく夜汽車に一人思い飛躍す
結婚と同時にぷっつりやめてしまった短歌が十年振に復活したのである。歌は下手であるがそれからの私には、レース編のデザインとともになくてはならぬよりどころとなぐさめを与えてくれるものとなっている。右の歌と文章は、昭和六十一年十二月に近代文芸社から出版した『歌集・山の花の歌・仕事の旅の歌』で著者の山下潔子が綴ったものである。
この歌集は山下潔子の第一歌集である。題名の如く二部構成となっており、左めくりの方は見開きで、右頁に高山植物の花の写真を扱かい、左頁にはその花を詠んだ横書きの短歌八首を収載する。右めくりの方は、作者が独自に開拓した分野の仕事からの旅の歌が、これは縦書きで一頁に十数首載せる。歌数は全部で一一二五首を収録してある。この歌集は、いくつかの点からみてユニークな歌集といえよう。その一つは、作者と自然の関わりが窺えること。二つに、作者の日記風メモによる連作がなされていること。三つに、作歌を再開した昭和三十四年から昭和四十五年までが時間の経過に従って配列されているために、作者の作風の変遷を知るのに利便であること。
作者が独自に開拓した仕事、即ち、編物研究は、昭和三十一年に山下編物研究所として開設され、昭和四十六年、県公認諏訪編物技芸学院と改称され、現在に至っている。
他方、歌歴の方は、昭和三十三年から四十六年まで降旗吉衛の「露草」に、昭和四十三年から昭和四十六年まで宮原あつ子の「白夜」に、昭和四十五年から五十一年まで大田青丘の「潮音」に、昭和六十二年から現在までは丸山敏文の「露草」、又、昭和六十三年から現在まで、松本門次郎の「底流」に所属している。これらで見るように、複数の結社に所属しているのは、作者の歌域の拡がりと探究心の表われで、一流の俳人、歌人にしばしば見られる傾向でもある。
右に見たように、山下潔子の本業は編物である。従って、その点を抜きにして論ずることは出来ない。先の第一歌集で作者は、「私の編物歴」の冒頭で「私が手編物のレースをはじめたのは昭和三十二年り春からであった」と述べ、昭和三十四年には先の編物の本の出版にこぎつけた。この時の様子を
まなじりを上げし決断わが三十四歳正月六日忘れず
とうたう。更に
目つむれば浮かびひらめく創作の神がわが身に乗りくれしがに
浮かびくるもの次々に指示・指導わが生徒らと製作つづく
厳冬の信州安曇の生家にて糊づけ仕上げのつらさは云わず
百近き作品原稿書き上げて如月寒き安曇野を発つ
以後この本がきっかけとなって、全国各地に私の仕事の旅が始ったのである。
と歌と文章は続く。こうした編物の技術説習の旅をメモと歌で第一歌集は綴ってゆく。
昭和五十年、最愛の理解者の夫、博将と死別。
あえぎあえぎ目指す三千登り来て乗鞍の霧に亡父と巻かるる
あとにつきひた登り来しよ乗鞍のいただきに亡夫とケルン積み上ぐ
右の二言は昭和五十七年の作であるが、第一歌集に散見する亡夫との山野行を偲ぶ歌は佳吟・愛惜、心打たれるものがある。
次に第二歌集にふれておく。『続・山の花の歌』(平成二年七月。近代文芸社)は〝短歌で綴る山の花図鑑〟の小見出しをつける。右頁が山の植物のカラー写真、左頁が短歌で合計三八一首を収載する。
最後に、作者への評価にふれておく。
昭和四十五年、短歌研究の中部地方推薦新人作品に六首。翌四十七年に中部地方新人作家特集に五首。この年は又、第十五回新入賞佳作に十首掲載された。この昭和四十七年から歌壇名簿、年刊歌集に登載されて現在に至っている。その十首の中から
夜間授業終えてストーブに沸きし湯を夜々注ぎいるわが湯たんぽに
家事はわが二の次三の次にしてあたふたと済ませ教室に入る
厳しい生活が直叙されていて詠む者の心を打つ作品である。 (星野 五彦)
※「信濃歌人傳 二」信濃文学界編 平成三年十二月十八日 謙光社 より
過去よりの風 山下潔子
2015年2月4日 水曜日朝ドラの「花子」の友の白蓮の歌碑みんと夏の山深く来し
「かくりよと神代うつし世」の歌碑のそば野の花なびく瀬音が響く
あこがれのオオヤマレンゲ山奥(さんおう)の湯宿の岩庭(にわ)に凛と花咲く(明治温泉)
低木の数本に白花・赤き芯蒼き(あお)山風花ゆらしゆく
山奥の湯宿の主の語り聞く白蓮との深きえにし識(し)りたり
白蓮の長女提供の写真とぞ二人の子らと親子四人の
白蓮の長女蕗苳(ふき)さん八十八歳現在(いま)も健在なりと聞きつつ
明治は遠くあらずもわれよりも白蓮の長女二歳年下
緑内障に目の見えぬ白蓮(つま)をいたわりてつくせし七歳年下の夫(つま)
清白のオオヤマレンゲの花ゆらしすぎゆく風よ過去よりの風
山下 潔子
〒三九三 下諏訪町矢木西三二
柳原白蓮の歌 語り 光本恵子(みつもとけいこ)
2015年2月4日 水曜日二〇一五年 一月三十一日 茅野市今井書店にて
語り 光本恵子(みつもとけいこ)
393-0044 下諏訪町湖畔6157-14
口語短歌誌「未来山脈」主宰
柳原白蓮の歌
明治十八年(1886)十月十五日に伯爵・柳原前光の次女として出生。本名燁子。実母の奥津りょうから生後すぐに引き離され麻布の柳原家に移る。父の正妻の初子を母と思って育つ。実母の奥津りょうは幕末の旗本の娘といわれている。
異母兄の義光、異母姉の信子は後に子爵の入江為守と結婚。
父の前光の妹の愛子(なるこ)は大正天皇の生母である。二位の局と言われた。
明治三十四年、(十六歳)北小路功光(いさみつ)出産。
明治四十一年、(二十三歳)出戻りだった燁子は東洋英和女学校に入学し村岡花子に出会う。乙女の学生時代、東洋英和時代にキリスト教に触れたことを、親友・村岡花子に逢ったり今に悦ぶ白蓮がいる。
自伝風小説の柳原燁子著『荊棘の實』によると妾腹(奥津りょう)の子であった白蓮は、伯爵柳原前光の妾の子として本妻(初子)の元に引き取られた。里子として増山くにの下に預けられる。
1、第一歌集『踏絵』(大正四年)から『幻の華(大正八年)まで (※歌の数字は頁番号)
大正四年出版『踏絵』は女性の自己主張、自我の文学といえよう。
自己の運命を与えられたものではなく、切り開く強い意思を思った女のこれから始まる運命を予兆として描いている。
巻頭のうた
① われはここに神はいづこにましますや星のまたたき寂しき夜なり
② 踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いただき立てる火の前
③ 吾は知る 強き百千の恋ゆえに百千の敵は嬉しきものを
④ 天地の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きね
⑤ 君なくてあらむこの身か人はそも天地をはなれ長らふべきか
⑦ 骨肉の父と母とにまかせ来ぬ吾がたましひよ誰にかへさむ
白蓮は東洋英和時代から引き続いて「心の花」に歌を出している。筆名で白蓮とした。
⑧ 開かぬやう神の作りし謎の鍵さびにしままに終へむ吾が世か
⑨ 筆をもて吾は歌はじわが魂と命をかけて歌生まむかも
⑩ この心君に殉する雄雄しさを吾とたたへて今日も暮しつ
⑪ 誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥
⑫ 年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木かげに
⑬ ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身
2、 柳原白蓮歌集「紫の梅」(大正十四年・聚芳閣刊)から
① あゝけふもうれしやかくて生きの身のわがふみてたつ大地はめぐる
② 星の光りその永劫のすがたよりなほもはるけきわが願ひかも
⑤ ありし日のこほりの涙火のなみだ地上に建てむ天国のため
⑥ 恋に克ち人にかちたるちからもておほけなきかな女のねがひ
④ 世の中のすべてのものに別れ来しわれに今更もの怖ぢもなし
この事件のいざこざで、兄の柳原義光は貴族院議員を辞め、白蓮の離縁に反対した。しかし、そうも言っておられず柳原家も仕方なく、受け入れた。白蓮は一応、東京の麻布の家に帰ったものの、世間の目もあり、黒髪を切って、謹慎することになった。大正十一年には、京都の尼寺に行くことになる。途中大津の大本教のある家で匿われた。そこに宮崎との間に生まれた、一歳の男児・香織が届けられた。
大きな試練を乗り越えて、「もう怖いものなしだ」というのである。
⑤ 元朝や今年初めて春にあふみどり児抱きて見する紅梅
⑥ 君病むに身のいとしさも忘れけり花は咲くとも花はちるとも
⑦ 夏にならば海へ山へと子を思ひ夜業(よなべ)をすなり吾は人の親
大正十二年九月一日午前十一時五十八分三十二秒、地震は起きた。
大正十二年、関西から東京に帰ると東京大震災に遭遇。おにぎりなど届けてくれたのは、宮崎家の父・滔天と母・槌子であった。この頃、龍介は喀血し、結核に病んでいたが、この大震災を機に、意を決して、二歳になる香織を連れて、白蓮は目白の宮崎家の龍介の下に、同居したのであった。宮崎家の人は、やさしく迎えた。
白蓮は夫を看護しながら、次々とエッセイや小説、童話を書いては一家を支えた。どんなに忙しくとも充実した生活で喜びに溢れている。
⑧ われにいま実の親の生きてあらば泣きてつげましこの安けさを
⑨ 十六やまことの母にあらずよと初めてしれる悲しきおどろき
⑩ むかし見し七月の陽のあるときのその磯の香を恋ひわたるかな
⑪ 地震のあと壁のひびきをつくろひしその張り紙にのこるおもひで
寝のまくらべよ落葉のさわぐ音はすれども
⑫ わがつまのかへりおそきも嬉しかり癒えたればこそと思ふがゆゑに
⑬ われにすがり生きてあるかと思ふにぞ小さきはいとしく乳ふくまする
⑭ みどり子は飢ゑて泣くやと乳みつる胸を抱きて家に急ぎぬ
大正十四年には長女蕗苳が生まれ、二人の子の母親となって、ますます書くことに忙しく母として、妻として充実した日々である。
⑮ ラヂオのいふ天気予報を口まねて語りきかすも五つの兄が
⑯ かへりおそきあるじ待つ間の夜の寒み炭つぎそへて雨の音きく
五歳にもなった上の男児の香織に妹が生まれ、仕事で遅い夫を待つのもまた楽しい時間だ。
そんな日、一九二六年十二月二十五日、大正天皇崩御の報に接する。
白蓮としては、現在、身分は剥奪されたものの大正天皇の生母は柳原愛子(やなぎはらなるこ)であり、白蓮としては何かじっとして居られぬ想いであったろう。
せめて歌を詠みたいと、次の短歌を詠んだ。
3、昭和三年刊の歌集「流転」不二書房で刊行から
① 思ひきや月も流転のかげぞかしわがこしかたに何をなげかむ
② つらかりしきのふの夢を忘れかね涙するほどの幸をしる
③ おのれのみか父なき子なるクリストををとめの頃によろこびしかな
④ 秋風や吾を育てたる品川の磯の香恋し人の訪はねば (歌集『流転』から)
村岡花子氏の令息の死を悼む(10首)
⑤ いねられず友の一人子魂(たま)失せて眠るその顔見て來し夜は
⑥ 君が書きしおとぎ噺の本などを棺に入るるか見るに得堪えず
⑦ 母と児が並びし床の空しきを思ひやるなり吾も人の親
御大葬にあひまつりて(大正天皇の崩御)
⑧ 刻々に悲しきことを耳にしつ夜は明けてける十二月二十五日
⑨ 御病弱に在す帝ときくにさへ悲しかりつるきのふにもあるかな
松永伍一編集白蓮著『火の国の恋』(昭和三十四年タイムス社刊)の旅路抄から
蓼科の項
⑩ 八ヶ岳に日の昇るとき霧ヶ峰ましろき月を抱かむとする (「地平線」にもあり)
⑪ 蓼科の山に向ひて人の名をよべばこだます恋しき人かな
息子の香織の名を呼んだのであろう。息子のために蓼科の別荘を買った。しかし、その息子は今はいない。前後はしばらく蓼科に行くのも嫌だったという。これは詩さ子ぶりに蓼科を訪ねた時の歌であろう。今年は山の知人の招きで十年年ぶりに蓼科に来た。嬉しかったのは、小学二年の黄石がご飯を炊くことができた事、とある。黄石とは蕗苳の息子である。(『火の国の恋』から)
龍介とはどんな男であったか。
孫文を助ける龍介の父の滔天。
宮崎滔天著『三十三年の夢』初版は明治三十五年刊(昭和十八年文藝春秋社刊)
宮崎家の父・滔天について語っておこう。宮崎滔天は、若い頃、熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学ぶ。日本に亡命していた孫文のために、十三歳の頃から秘密の使い走りなどし、成人しては、池袋に亡命してきた孫文や蒋介石を援助した。アジアを一つにと壮大な意識とともに、浪曲家としても活動。また、母・槌子は漱石『草枕』のモデルとなった前田卓の妹でもある。そんな両親の子である宮崎龍介も結核が完治すると、弁護士として活動する。
龍介は言う。アジアを奔走して家を省みない父に母・槌子は苦労の連続だった。この母が、大正十二年の東京大震災のとき、逃げ惑っていた白蓮におにぎりの差し入れをしてくれたのも母だった。
革命家・滔天と母槌子に育てられた宮崎龍介に出会ったことは白蓮にとって、まさに運命の人であったのである。
4、白蓮歌集『地平線』は昭和三十一年ことたま社刊最後の歌集でもある。
昭和十年には(一九三五)には短歌誌「ことたま」を創刊。
二人の間に生まれた大正十年生まれの香織は、成人して、日本が、開戦となるや大学在学中にもかかわらず学徒兵として招集される。
そして、昭和二十年(一九四五)敗戦。
つぎつぎと戦場から復員してくる人を見て、白蓮はそろそろ息子が帰還する頃と思って、今か今かと待った。届いたのは、「戦死」という酷い知らせ。その嘆きはいかほどだったか。
それまでの白蓮歌集は自らの境遇を嘆き、自己愛と傲慢さも感じられる短歌が目立った。が、この歌集『地平線』(昭和三十一年ことたま社刊)になると母の悲嘆は重く悲しく、人間味が率直で、心に染みる。
① かへり来ば吾子に食はする白き米手握る指ゆこぼしては見つ
② ただ一人ぬれそぼつらぬ鹿児島のはざまの吾子のおくつき
③ 海見れば海の悲しさ山みれば山の寂しさ身のおきどころなき
④ この道は吾子が最後となりし道夫と並びてゆくは悲しも
⑤ 英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壷よ振れば音する
⑥ ふと思ふ真白き馬に鞭うちて弱き世の人ふれふさしめば
⑦ 忘却はすべての悔いの終りなれああはてもなき広きあめつち
辞世の歌
⑧ そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ
最期は両眼とも失明し、昭和四十二年二月二十三日西池袋の自宅で亡くなった。墓地は神奈川県相模湖町石老山の顕鏡寺。