柳原白蓮の歌 語り 光本恵子(みつもとけいこ)

二〇一五年  一月三十一日  茅野市今井書店にて

語り  光本恵子(みつもとけいこ)

393-0044 下諏訪町湖畔6157-14

口語短歌誌「未来山脈」主宰

 

柳原白蓮の歌

 

明治十八年(1886)十月十五日に伯爵・柳原前光の次女として出生。本名燁子。実母の奥津りょうから生後すぐに引き離され麻布の柳原家に移る。父の正妻の初子を母と思って育つ。実母の奥津りょうは幕末の旗本の娘といわれている。

異母兄の義光、異母姉の信子は後に子爵の入江為守と結婚。

父の前光の妹の愛子(なるこ)は大正天皇の生母である。二位の局と言われた。

明治三十四年、(十六歳)北小路功光(いさみつ)出産。

明治四十一年、(二十三歳)出戻りだった燁子は東洋英和女学校に入学し村岡花子に出会う。乙女の学生時代、東洋英和時代にキリスト教に触れたことを、親友・村岡花子に逢ったり今に悦ぶ白蓮がいる。

 

自伝風小説の柳原燁子著『荊棘の實』によると妾腹(奥津りょう)の子であった白蓮は、伯爵柳原前光の妾の子として本妻(初子)の元に引き取られた。里子として増山くにの下に預けられる。

 

1、第一歌集『踏絵』(大正四年)から『幻の華(大正八年)まで (※歌の数字は頁番号)

 

大正四年出版『踏絵』は女性の自己主張、自我の文学といえよう。

自己の運命を与えられたものではなく、切り開く強い意思を思った女のこれから始まる運命を予兆として描いている。

巻頭のうた

① われはここに神はいづこにましますや星のまたたき寂しき夜なり

 

② 踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いただき立てる火の前

 

③ 吾は知る 強き百千の恋ゆえに百千の敵は嬉しきものを

 

④ 天地の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きね

 

⑤ 君なくてあらむこの身か人はそも天地をはなれ長らふべきか

 

⑦ 骨肉の父と母とにまかせ来ぬ吾がたましひよ誰にかへさむ

 

白蓮は東洋英和時代から引き続いて「心の花」に歌を出している。筆名で白蓮とした。

 

⑧ 開かぬやう神の作りし謎の鍵さびにしままに終へむ吾が世か

 

⑨ 筆をもて吾は歌はじわが魂と命をかけて歌生まむかも

 

⑩ この心君に殉する雄雄しさを吾とたたへて今日も暮しつ

 

⑪ 誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥

 

⑫ 年経ては吾も名もなき墓とならむ筑紫のはての松の木かげに

 

⑬ ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身

 

2、 柳原白蓮歌集「紫の梅」(大正十四年・聚芳閣刊)から

 

① あゝけふもうれしやかくて生きの身のわがふみてたつ大地はめぐる

 

② 星の光りその永劫のすがたよりなほもはるけきわが願ひかも

 

⑤ ありし日のこほりの涙火のなみだ地上に建てむ天国のため

 

⑥ 恋に克ち人にかちたるちからもておほけなきかな女のねがひ

 

④ 世の中のすべてのものに別れ来しわれに今更もの怖ぢもなし

 

この事件のいざこざで、兄の柳原義光は貴族院議員を辞め、白蓮の離縁に反対した。しかし、そうも言っておられず柳原家も仕方なく、受け入れた。白蓮は一応、東京の麻布の家に帰ったものの、世間の目もあり、黒髪を切って、謹慎することになった。大正十一年には、京都の尼寺に行くことになる。途中大津の大本教のある家で匿われた。そこに宮崎との間に生まれた、一歳の男児・香織が届けられた。

大きな試練を乗り越えて、「もう怖いものなしだ」というのである。

 

⑤ 元朝や今年初めて春にあふみどり児抱きて見する紅梅

 

⑥ 君病むに身のいとしさも忘れけり花は咲くとも花はちるとも

 

⑦ 夏にならば海へ山へと子を思ひ夜業(よなべ)をすなり吾は人の親

 

大正十二年九月一日午前十一時五十八分三十二秒、地震は起きた。

大正十二年、関西から東京に帰ると東京大震災に遭遇。おにぎりなど届けてくれたのは、宮崎家の父・滔天と母・槌子であった。この頃、龍介は喀血し、結核に病んでいたが、この大震災を機に、意を決して、二歳になる香織を連れて、白蓮は目白の宮崎家の龍介の下に、同居したのであった。宮崎家の人は、やさしく迎えた。

白蓮は夫を看護しながら、次々とエッセイや小説、童話を書いては一家を支えた。どんなに忙しくとも充実した生活で喜びに溢れている。

 

⑧ われにいま実の親の生きてあらば泣きてつげましこの安けさを

 

⑨ 十六やまことの母にあらずよと初めてしれる悲しきおどろき

 

⑩ むかし見し七月の陽のあるときのその磯の香を恋ひわたるかな

 

⑪ 地震のあと壁のひびきをつくろひしその張り紙にのこるおもひで

 

寝のまくらべよ落葉のさわぐ音はすれども

⑫ わがつまのかへりおそきも嬉しかり癒えたればこそと思ふがゆゑに

⑬ われにすがり生きてあるかと思ふにぞ小さきはいとしく乳ふくまする

⑭ みどり子は飢ゑて泣くやと乳みつる胸を抱きて家に急ぎぬ

 

大正十四年には長女蕗苳が生まれ、二人の子の母親となって、ますます書くことに忙しく母として、妻として充実した日々である。

 

⑮ ラヂオのいふ天気予報を口まねて語りきかすも五つの兄が

⑯ かへりおそきあるじ待つ間の夜の寒み炭つぎそへて雨の音きく

 

五歳にもなった上の男児の香織に妹が生まれ、仕事で遅い夫を待つのもまた楽しい時間だ。

そんな日、一九二六年十二月二十五日、大正天皇崩御の報に接する。

白蓮としては、現在、身分は剥奪されたものの大正天皇の生母は柳原愛子(やなぎはらなるこ)であり、白蓮としては何かじっとして居られぬ想いであったろう。

せめて歌を詠みたいと、次の短歌を詠んだ。

 

3、昭和三年刊の歌集「流転」不二書房で刊行から

 

① 思ひきや月も流転のかげぞかしわがこしかたに何をなげかむ

 

② つらかりしきのふの夢を忘れかね涙するほどの幸をしる

 

③ おのれのみか父なき子なるクリストををとめの頃によろこびしかな

 

④ 秋風や吾を育てたる品川の磯の香恋し人の訪はねば  (歌集『流転』から)

 

村岡花子氏の令息の死を悼む(10首)

⑤ いねられず友の一人子魂(たま)失せて眠るその顔見て來し夜は

⑥ 君が書きしおとぎ噺の本などを棺に入るるか見るに得堪えず

⑦ 母と児が並びし床の空しきを思ひやるなり吾も人の親

 

御大葬にあひまつりて(大正天皇の崩御)

⑧ 刻々に悲しきことを耳にしつ夜は明けてける十二月二十五日

⑨ 御病弱に在す帝ときくにさへ悲しかりつるきのふにもあるかな

 

松永伍一編集白蓮著『火の国の恋』(昭和三十四年タイムス社刊)の旅路抄から

蓼科の項

⑩ 八ヶ岳に日の昇るとき霧ヶ峰ましろき月を抱かむとする (「地平線」にもあり)

⑪ 蓼科の山に向ひて人の名をよべばこだます恋しき人かな

息子の香織の名を呼んだのであろう。息子のために蓼科の別荘を買った。しかし、その息子は今はいない。前後はしばらく蓼科に行くのも嫌だったという。これは詩さ子ぶりに蓼科を訪ねた時の歌であろう。今年は山の知人の招きで十年年ぶりに蓼科に来た。嬉しかったのは、小学二年の黄石がご飯を炊くことができた事、とある。黄石とは蕗苳の息子である。(『火の国の恋』から)

 

龍介とはどんな男であったか。

 

孫文を助ける龍介の父の滔天。

宮崎滔天著『三十三年の夢』初版は明治三十五年刊(昭和十八年文藝春秋社刊)

宮崎家の父・滔天について語っておこう。宮崎滔天は、若い頃、熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学ぶ。日本に亡命していた孫文のために、十三歳の頃から秘密の使い走りなどし、成人しては、池袋に亡命してきた孫文や蒋介石を援助した。アジアを一つにと壮大な意識とともに、浪曲家としても活動。また、母・槌子は漱石『草枕』のモデルとなった前田卓の妹でもある。そんな両親の子である宮崎龍介も結核が完治すると、弁護士として活動する。

龍介は言う。アジアを奔走して家を省みない父に母・槌子は苦労の連続だった。この母が、大正十二年の東京大震災のとき、逃げ惑っていた白蓮におにぎりの差し入れをしてくれたのも母だった。

革命家・滔天と母槌子に育てられた宮崎龍介に出会ったことは白蓮にとって、まさに運命の人であったのである。

 

4、白蓮歌集『地平線』は昭和三十一年ことたま社刊最後の歌集でもある。

 

昭和十年には(一九三五)には短歌誌「ことたま」を創刊。

二人の間に生まれた大正十年生まれの香織は、成人して、日本が、開戦となるや大学在学中にもかかわらず学徒兵として招集される。

そして、昭和二十年(一九四五)敗戦。

つぎつぎと戦場から復員してくる人を見て、白蓮はそろそろ息子が帰還する頃と思って、今か今かと待った。届いたのは、「戦死」という酷い知らせ。その嘆きはいかほどだったか。

それまでの白蓮歌集は自らの境遇を嘆き、自己愛と傲慢さも感じられる短歌が目立った。が、この歌集『地平線』(昭和三十一年ことたま社刊)になると母の悲嘆は重く悲しく、人間味が率直で、心に染みる。

 

① かへり来ば吾子に食はする白き米手握る指ゆこぼしては見つ

② ただ一人ぬれそぼつらぬ鹿児島のはざまの吾子のおくつき

③ 海見れば海の悲しさ山みれば山の寂しさ身のおきどころなき

④ この道は吾子が最後となりし道夫と並びてゆくは悲しも

⑤ 英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壷よ振れば音する

⑥ ふと思ふ真白き馬に鞭うちて弱き世の人ふれふさしめば

⑦ 忘却はすべての悔いの終りなれああはてもなき広きあめつち

 

辞世の歌

⑧ そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちに見つ

 

最期は両眼とも失明し、昭和四十二年二月二十三日西池袋の自宅で亡くなった。墓地は神奈川県相模湖町石老山の顕鏡寺。